2月14日の話をしよう。
誕生日でも記念日でも、お祝い事があったわけでもない。それでも一年の中で一番甘い日だと感じる、その日の話。
毎年この時期になるとあちこちから漂ってくるチョコレートの匂いに頭の奥がくらりとする。年を追うごとにチョコレートの種類が増えていき、こんなものがあるのかと驚かされる。いつでもどこでも買えるチョコレート菓子とは違う、この時期のその場所でしか買えないチョコレートが並ぶ催事場に足を踏み入れ、カカオの匂いに包まれたそこで目当てのお店を探した。
たくさんの人で賑わうそこ、八割は女の子で男の僕としては少し肩身の狭さを感じたものの、おそらく誰もすれ違う相手のことなど気にも留めない。欲しいと思っていた海外のブランドのチョコレートを一つ、虎に渡す用に一つ、二人で食べたくて思わず手に取ったブラウニーを一つ、それで終わるはずだったバレンタインの買い物。けれど残念なことにあちこちで差し出される試食に負けて予定していなかった量のチョコレートを購入してしまった。
そんな先週のことを思い出しながら14日、虎にチョコを渡すといつも通りのポーカーフェイスが僅かに緩み「バレンタインか」と声を漏らした。
「バレンタインだよ」
「俺も買ってくる」
「あはは、いいよ、二人で食べれるようにブラウニーもあるんだ」
「ブラウニー?」
「うん、日持ちするからって勧められて思わず」
「コーヒー?」
「うん、コーヒーにしようかな…虎は?ホットミルクにする?」
「ああ」
「じゃあいれようか」
「座ってていいから」
「うーん、一緒にいれるよ」
「何だそれ」
「なんでも」
二人でキッチンに立ち、別に全然二人でする必要のない作業を二人でして、コーヒーとホットミルクを一杯ずつマグカップに注いだ。甘さを抑えたブラウニーは、けれどしっとりした舌触りの良いもので、これはホットミルクによく合いそうだなと思った。
虎はブラウニーを食べ終えてから僕の渡したチョコレートの包装を剥がし、中身以上にコストのかかっていそうな箱を開けた。
見た目も味も、特別なチョコレート。
ひとつつまんで口に運んだ虎はふっと目を伏せて「うまい」と呟いた。
「よかった。何味だった?」
「キャラメル」
「ふふ、虎の好きな味だね」
「ブラウニーもうまかった」
「おいしかったね」
「蓮」
「うん?」
「……」
「お返し何がいいって聞こうと思ってる?」
「正解」
「あはは、いいよ、気にしないで」
自己満足で買ってきたんだからと続けた僕に、虎は「じゃあ俺も自己満で」と答えてその指先でもうひとつチョコを挟んだ。挟んで、僕の口元に持ってきて「ん」と短く口を開けるよう促した。
「いいの」
「いらない?」
「ありがとう、いただきます」
「ヘーゼルナッツ」
「ん、うん…おいしいね」
ほろ苦いブラウニーの後、甘さの際立つその一粒の余韻が心地よく、「おいしい」と無意識に言葉が落ちた。それを拾うように虎の唇が僕の唇を撫でる。甘い吐息ごと掬うように。柔らかなミルクの匂いをそこに残して。
「ふ、ふふ」
「何」
「ううん、たまには僕も飲もうかなって」
「……」
「ホットミルク」
「甘いけど」
「うん、甘くても。あ、でも砂糖はなしで少し蜂蜜入れようかな」
「蜂蜜」
「うん、虎も好きでしょ、蜂蜜入りのホットミルク」
「切らしてたな」
「後で買ってこよう」
「ああ……あとでな」
「うん、後で」
あとで、あとで…
そう言い合って、また言葉を混ぜ合うように唇を重ねる。
あとで、なんて。きっと後回しにしたら億劫になってしまう。それでも僕らは小さく笑いを含んだ吐息を漏らし、あとで、と空中にメモをするように繰り返した。部屋の中に充満するバレンタインの匂いと甘くて痺れそうなキスに飲まれて。
「甘いね」
「そうか」
「ん、あまい」
「まずい?」
「ううん、幸せな味がする」
「なんだそれ」
「そのままの意味だよ」
そのままの意味。
虎の体が僕を後ろへ押し、背中がソファに沈む。
暖かい部屋で過ごす、虎の普段より高い体温が落ちてきて、僕はそれを両手で思い切り抱きしめた。
2月14日、今年も虎とチョコレートを食べた。
来年はどんなチョコがいいだろうか、そんなことを考えるのも幸せでたまらない。たまらないけれど、毎年のことながら、しばらくチョコは食べられそうにないなと思うのだ。おかしな話だ。でも、その可笑しさも愛しくて、僕は虎にありがとうを何度も言うのだ。
こんなふうに、虎のことを考えるだけで幸せなのだから。あまり得意ではなかった甘いもののことを考えて胸が温かくなるのも、頬が緩むのも。虎がいてくれるから。
「晩御飯にもチョコレート使うよ」
「え、なに」
「ビーフストロガノフの隠し味に」
「……」
「大丈夫、美味しくなるよ」
二人で沈んだソファの上、クスクス笑い合ってまたキスをして、蜂蜜を買いに出かけるまで僕らはチョコレートの余韻に浸った。
Happy Valentine
「あれ、園村先生珍しいですね」
「え?」
「お昼、それだけですか」
「あ、ああ…少しだけ胃の調子が良くない気がして」
「……胸焼けですか、もしかして」
「あはは、どうですかね、そんなことはないと思うんですけど」
「チョコの匂いだけでも胸焼けしそうですからね」
「ふふ、確かに……でも、一年に一度くらいそういう日があってもいいですね」
「(穢れのなさが染みる……)」